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メデューサの首
2話 メデューサの首 -2
メデューサの首(小酒井不木の作品)第2話 「メデューサの首 -2」を今すぐ読もう!チャット形式小説投稿サイトBookChat
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わたしはいまでこそなにもやらないで、こうしてぶらぶらしておりますが、実はあなたがたの先輩なのですよ。

明治××年にT医科大学を卒業して産婦人科の教室に半年あまり厄介になり、両親の希望によって、すこぶる未熟な腕を持ちながら日本橋のK町に病院を建てて診察に従事しました。

わたしも学生時代には、あなたがたのようによく温泉宿へ出かけては勉強したもので、やはり卒業試験前の夏休みは、ある温泉で暮らしたのでした。

わたしもずいぶん茶目っけの多いすこぶる楽天的な人間でしたが、開業すると間もなく両親に死なれたのと、ある入院患者について奇怪な経験をしてから医業なるものに厭《いや》けが差し、

さいわい自分一人の生活には困らぬだけの資産がありましたので、開業後半年にして病院を閉鎖し、家内も迎えず、ずっと独身でぶらぶら暮らしてきたのです。

元来、人間として遊んでいるほど大きな罪悪はありませんが、とても二度と医者をやる勇気が出ないものですから、こうして勝手次第に諸々方々を飛びまわって、山川に親しむよりほかはありません。

さて、お語はわたしの開業当時に戻ります。ある日、わたしの病院へ二十七、八の、大きな腹を抱えた患者が診察を受けに来ました。

わたしは彼女を見るなり、どこかで以前に見たことのある女だと思いました。

そうして、彼女のひどくやつれた、凄《すご》いほど美しい顔を眺めて、なんとなくぞっとするような感じを起こしました。

彼女は自分のお腹《なか》が大きくなったので診察を受けに来たのですが、診察してみるとそれは妊娠ではなく、明らかに肝臓硬変症、すなわち俗に言う“ちょうまん”で、

お腹の大きいのは腹水のためであり、黄疸《おうだん》は目につきませんでしたが、腹壁には“メデューサの首”の症候がはっきり現れておりました。

あなたがたはもうお学びになったことですから、説明するまでもありませんが、メデューサとはいうまでもなくギリシャ神話の中のゴーゴンの伝説に出てくる怪物で、その髪の毛が蛇からできているそうです。

肝臓硬変症の場合には、肝臓の血管の圧迫される関係上代償的に腹壁の静脈が怒張して、皮膚を透かして蛇がうねっているように見え、その静脈が臍《へそ》のところを中心として四方にうねり出る有様は、メデューサの頭をてっぺんから見るように思われ、メデューサの首と名づけられているのであります。

え? なに? 講義のときにそんな説明は聞かなかったのですって? では、わたしの考えが間違っておりますかな!!まあ、どうでもよろしい。

とにかく、肝臓硬変にもとづく腹水に悩む患者の腹壁をよくご覧なさい。

ギリシャの神話を読んだことのある者なら、たしかに患者の腹の中に、メデューサの首が宿っているのではないかと思いますから。

さて、肝臓硬変症はなかなか治りにくいものです。腹水を取り去ることによって患者は一時軽快しますが、すぐまた水が溜《た》まってきて、結局はだんだん重って死んでしまいます。

しかし、血管が圧迫されるために水が溜まるのですから、血液の流通をよくするために、手術によって腹内の血管と腹壁の血管とを結びつければ、患者の生命を長引かすことができるということでした。

え? それをタルマ氏の手術といいますって? 

さあ、わたしのときにはそんな名があったかどうかよく記憶しませんが、もしそのタルマという人が発見した以前にわたしたちがそういう手術のあることを教わったとすると、それを数えた△△教授は実に偉い学者だと言わねばなりません。

いずれにしても、たといその手術を行ったとしても、もとより完全に肝臓硬変の患者を救うことは困難ですから、わたしはその女を診察して思わずも顔を曇らせずにはおられませんでした。

すると彼女は、わたしの心配そうな顔を見て、

患者の女

「先生、妊娠でしょう?」

と訊ねました。わたしはこれを聞いて、思わずも、

先生

「いえ、違います」

とはっきり答えました。

彼女はしばらくの間、じっとわたしの顔を眺めておりましたが、

患者の女

「先生、本当のことをおっしゃってください」

と、窪《くぼ》んだ目を据えて申しました。

先生

「本当です。妊娠ではありません」

わたしはこう答えながらも、もし彼女が妊娠であってくれたなら、どんなにか心が楽だろうと思わずにはおられませんでした。

そうして、わたしはその時彼女に肝臓硬変症だと告げる勇気がどうしても出ませんでした。わたしが内心大いに煩悶《はんもん》しているところを見て、やがて彼女は言いました。

患者の女

「先生、どうかよくわたしのお腹を眺めてください。先生には、わたしのお腹の中に宿っている恐ろしい怪物の頭が見えないのでございますか」

先生

「え?」

と、わたしは全身に冷水を浴びせかけられたような気がして問い返しました。

彼女は“メデューサの首”に気がついているのだ。こう思うと、わたしはなんだか痛いところへ触れられたような思いになりました。

患者の女

「先生」

と、彼女は診察用ベッドに相も変わらず仰向《あおむ》きになったまま、わたしの顔を孔《あな》の空くほど見つめて申しました。

患者の女

「わたしのお腹の中にはたしかに恐ろしい怪物が宿っております。先生は、ギリシャ神話の中に出てくるメデューサの首の話をご承知でしょう。

患者の女

わたしのお腹の中にはメデューサの首が宿っているのですね。先生、よくご覧なすってください。

患者の女

メデューサの髪の毛の蛇が、わたしの皮膚の下でうねうね動いているのが見えましょう。どうです、動いているではありませんか」

わたしはこれを聞いて、とんでもない患者が訪ねてきたことを悲しみました。彼女はたしかに発狂しているのだ。病気の苦しさのために精神に異常を来したのだ。

と、考えながらも、彼女の言葉に少しも発狂者らしいところがないのを不審に思いました。恐らくヒステリーの強いのであろう。

そうして、お腹の皮下の血管の有様と、お腹の大きくなったのを見て、メデューサの首を妊娠したものと思い込んだのであろうと考えました。

しかし、彼女がメデューサの首だと認めているのは、彼女が肝臓硬変症であることを説明するに都合よく、なおまた彼女の妄想を打ち消すにも役立つから、いっそこの場で彼女の病気の真相を告げたほうが、メデューサの首を妊娠したなどという妄想に悩むよりも幸福であろうと思って、わたしは肝臓硬変症によって起こる症状を詳しく説明して聞かせました。

ところが、わたしのこの説明はわたしの予期したのとまったく正反対の結果をもたらしました。すなわち彼女は、わたしの言葉を聞くなり、

患者の女

「そーれご覧なさい。先生にも、わたしのお腹に宿っているのがメデューサの首であることがわかっているではありませんか。

患者の女

わたしがメデューサの首を孕《はら》んでいるということをわたしに言いたくないので、勝手にそんな病気の名前を拵《こしら》えて、わたしをごまかそうとなさるのでしょう。どうか先生、本当のことをおっしゃってください」

彼女はまったく真面目でした。わたしはむしろ呆《あき》れるよりも気の毒になってきました。いったい、どうして彼女はそうした頑固な妄想を得たのであろうか。

素人として自分の腹壁の血管を見ただけで、はたしてメデューサの首だと連想し得るものであろうか。いやいや、これには必ず何か深い理由《わけ》があるに違いない。

彼女のこの妄想を除くには、まずその原因を知らねばならない。こう考えてわたしは、

先生

「いったい、あなたはなぜメデューサの首を妊娠したのだと信ずるのですか。人間がそんな怪物を孕むということは絶対にあり得ないではありませぬか」

と訊ねました。

これを聞くと彼女は悲しそうな表情をしました。

患者の女

「ああ、先生はちっとも、わたしに同情してくださらない。昔、中国の何とかいう女は鉄の柱によりかかって鉄の玉を妊娠して産み落としたというではありませぬか。わたしにも、メデューサの首を妊娠するだけの立派な理由があるのです」

先生

「それはどういう理由ですか」