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天才兄妹
5話 五
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この時——

ベーカー

「立花さん、すみませんでした——」

あわただしく楽屋へ飛込んで来たのは、昨夜汽車の中で一緒になった外人、フランツ・ベーカーです。

ベーカー

「勘弁して下さい、私は、国の為に、あなたに飛んだ御迷惑をかけました」

幾久雄

「…………」

誰も返事をする人はありませんが、ベーカーは、早くも香椎六郎の前に、むき出しに並べた十顆《じっか》のダイヤ、燦として星の如く輝くのを見て、

ベーカー

「おお、気が付きましたか、ヴァイオリンの中から出したのですね」

万事呑込んだ様子で、かき集めもし兼ねない風です、香椎六郎は驚いてそれを止め乍ら

香椎

「お待ち下さい、それは一体どうした事なのです、このダイヤは貴方《あなた》のものだとでも仰《おっ》しゃるのですか」

ベーカー

「え、私の、それに相違ありません。私のダイヤと言うよりは、私の国のダイヤと言った方がいいかもわかりません。御不審もあるようですから、詳しくお話しましょう——」

ベーカーの話というのは、大変入り組んで居りましたが、簡単に書くと、斯うなります。

ベーカーの故郷というのは、中央|欧羅巴《ヨーロッパ》の小さい小さい国ですが、さる強国の保護国になって居るので、今度完全に独立をさして貰うように、その事を国際連盟という、世界の平和の為に出来て居る会議へ持ち出すことになったのです。

それについては、日本や、イギリスやフランスに承知してもらわなければならず、特に米国は、この国際連盟会議へ入って居ないので、特別に手を延して米国の輿論《よろん》——政治家や新聞やの意見——を動かすように運動をしなければならなかったのです。

ところで、このフランツ・ベーカーというのは、その国でも非常に有力な愛国者で、自分の母国を独立させるについては、大変な大きい費用をかけて、世界の強国を説いて歩いて居たのです。

ことに米国の輿論を動かすには、どれだけお金がかかるかわかりません。

それかと言って、保護して居る強国に睨まれて居りますから、そんな大金を本国から持ち出すわけにも行かず、為替《かわせ》にして送ることは勿論出来ない相談ですから、国の大臣やお金持と相談して、運動費をこの大変な金高になる宝石にかえ、ストラドヴァリウスの偽物のヴァイオリンを造らせて、その中に入れて持って来たのです。

ベーカー

「それを嗅ぎ付けたのは、世界を跨《また》にかけて悪事を働く、恐ろしい国際強盗団の一味です、シベリア鉄道から私の後をつけて、とうとう日本まで押し渡り、私の身体《からだ》につけて居る、宝石を、どんな事をしても巻き上げようとして居るのです」

ベーカーはこう申します。

ベーカー

「あいつ等は、私の身につけて居るものは、何も彼もしらべました。

ベーカー

帽子から靴から、弗入《どるいれ》から、あらゆるかくし、トランクの中まで、私の留守をねらってそっと探したり、私をおどかして大ぴらに検《あらた》めたり、あらゆる方法を尽して調べましたが、宝石はどうしても見付かりません。

ベーカー

あいつ等の目を通さないものは、私の大事に持って居るヴァイオリンだけになりました。

ベーカー

現に、昨夜汽車の中で、立花さん兄妹が食堂へ入って居る間に、私へピストルを突き付けて、ヴァイオリンの箱を開けさせようとした二人の男女は、その強盗団の一味のもので、私も一時は危うくなりましたが、その内にお二人が帰って来たので、あの場は無事にすみました。

ベーカー

が、あのままホテルへ帰ると、私の後をつけて来て脅迫するのは判り切って居ります。立花さんには、本当にお気の毒でしたが、私の国の運命にはかえられません。

ベーカー

よく似て居たのを幸いに、食堂にいらっしゃる内にヴァイオリンの箱をすり換え、私は立花さんのストラドヴァリウスを持って、立花さんには宝石の入ったヴァイオリンをお預けしたのです。

ベーカー

提琴家ほどヴァイオリンを大事にするものはありません——立花さんの手にあれば大丈夫と、私は安心して取換えたわけです。

ベーカー

国際強盗団の一味は、昨夜私の帰りを待ち受けて、四五人で脅迫して、ヴァイオリンの箱を開けさせましたが、私の持って居るのは正真正銘のストラドヴァリウスですからいくら探しても宝石があるわけはありません。

ベーカー

とうとう、宝石はもうとうに米国へ送ったと言ったのを信じて、漸く私を許してくれたようなわけです。立花さん、有難う御座いました。

ベーカー

さぞ御迷惑をなすったでしょうが、国の為、同胞の為に、こんな危いところをこぎ抜けた私の真心に免じて、どうぞ許して下さい」

ベーカーの顔には、よしや相手が、冷たい石っころでも感動せずには居られないような、火のような真情が燃えて居ります。

幾久雄

「わかりました。ベーカーさん、貴方《あなた》の国を救う真心を思うと私の演奏会などは、どうなったところで物の数でもありません」

ベーカー

「有難う立花さん」

二人は固く固く手を握り合って、その上に、熱い涙をさえふりそそぎました。

ベーカー

「本当のストラドヴァリウスは此処《ここ》にあります、御安心下さい。国際強盗団の連中に、宝石の事はわかるでしょうが、ヴァイオリンの事はわかりませんから、これは持って行こうともしなかったのです」

幾久雄

「そのダイヤ百顆《ひゃっか》よりも、私はこの一挺のヴァイオリンが欲しかったのです、ベーカーさん有難う、ダイヤはどうぞお持ち下さい」

ベーカー

「貴方《あなた》は本当の芸術家だ——イエイエ私の偽物のストラドヴァリウスは、打《ぶ》ち壊しても惜しくはありません。私はもう強盗団の眼をのがれて、明日は米国行の船に乗ります。

ベーカー

これがお別れになるでしょう——お嬢さん、失礼ですが、せめてこれだけ記念に受取って下さい。貴方のお嫁入の仕度の一部に——いやいやピアノの研究に洋行なさる費用の一部に……」

卓《テーブル》の上からかき集めた十箇のダイヤの内一番小さい、けれども一番美しいダイヤを一粒、信子の手に転がし落して、辞退をする暇もなく、

ベーカー

「左様なら皆さん」

ベーカーの姿は昼も薄暗い道具裏へ消えてしまいました。

香椎

「あの西洋人もエライが、君もエライ、今日という今日、俺は本当の愛国者と、それから本当の芸術家と、それから本当に兄を思う美しい妹を見たよ」

香椎六郎も、感歎の声をあげて、友人の高貴な顔を仰ぎました。そして信子の可憐な清純な姿にその濡れた眼を移しました。

十五分の休憩が一時間近くなって、聴衆は割れ返るような騒ぎでしたが、

その日の第二部「メンデルソンのホ短調の司伴楽」の美しさに、帝劇一杯の客は、涙ぐましいまでの感激に打たれました。

第三部の小曲の美しさも、言うまでもありません。

第一部があんなに悪かったのは、多分、日本に於ける初ステージで、立花君も少しあがった為だろうと、新聞の音楽批評は書きました。

信子嬢の伴奏が、兄幾久雄のヴァイオリンにも優《ま》して、その日の聴衆を酔わせたことは申すまでもありません。