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天才兄妹
2話 二
天才兄妹(野村胡堂の作品)第2話 「二」を今すぐ読もう!チャット形式小説投稿サイトBookChat
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幾久雄

「私の友人というのは、金持で病身で、そして私と同じように音楽を愛する男です」

幾久雄はこう話し始めました。

幾久雄

「一昨年《おととし》の夏、私と一緒にフランスからドイツへ音楽研究の旅を続けて居る時、ミュンヘンのさる旧家の売り立てで、思いもよらぬヴァイオリンの名器を手に入れました。

幾久雄

そのヴァイオリンというのは、銘のあるストラドヴァリウスで世にも稀《まれ》なる名器ですが、何んという幸運でしょう、友人はそれをたった三万円で手に入れたのです」

ベーカー

「お、お、ストラドヴァリウス、それは珍らしい事です」

ベーカーも碧《あお》い眼を見開いて、酔い心地に聞いて居ります、武士の名刀、騎士の良馬と同じことで、ヴァイオリンを弾く者に、良いヴァイオリンほど尊いものはありません。

読者の中には、知って居られる方も沢山あるでしょうが、ストラドヴァリウスというのは、今から二百六七十年前のイタリーに住んで居た人で、ヴァイオリン作りとしては、古今独歩の名人と言われた人です。

この人の作ったヴァイオリンで、今の世に残って居るのは登録されたように、数や持主までも判って居る位ですから、一つ売物が出たと言っても、音楽家の騒は大変なものです。

余談はさておき——

幾久雄

「私の友人はその名器を三万円で手に入れ、命よりも大事に日本へ持って帰りましたが、何んとした不幸でしょう。

幾久雄

永い間の旅行で身体《からだ》を痛めた為に、日本へ着くと直ぐ、重い病の床《とこ》に就いて、枕も上らない有様。

幾久雄

折角《せっかく》買った名器ストラドヴァリウスも、とうとう弾いて見る折もなく、枕辺に飾って、それを眺めて居るだけでした」

ベーカー

「お気の毒なことです、名器の尊いことを知るのは、本当の芸術家だけですが、私も何んかしら、お友達の悲しい心持がお察し出来るような気がします」

幾久雄

「有難う、ミスター・ベーカー、友人の心持が解って、同情して下さる方が一人でもあったら、友人もどんなにか心安く死んで行けるでしょう」

ベーカー

「死ぬ? その友人が亡くなられたのですか」

幾久雄

「そうです。可哀相に——そのヴァイオリンを痩せ衰えた手で撫でながら、三日前にとうとう死んでしまいました」

ベーカー

「それは、お気の毒な」

幾久雄

「死ぬ前に私を病床へ呼んで、

幾久雄

(このヴァイオリンを、私が死んだら君へ形見にやり度《た》いが、受取ってくれるだろうね——ミュンヘンの競売で、是を買った時、丁度君も一緒に居たっけ、なア——あの時分は楽しかった。立花君、僕は不幸にも日本へ帰ってから、このヴァイオリンを一度もひく事が出来なかった、そのくせ、今までは惜しんで、人にひかせもしなかったが、今死ぬという時、つくづくこのヴァイオリンの音が聴き度くなった、すまないが君、そこで静かな曲を二つ三つひいてくれないか、私はそれを聴き乍《なが》ら、安らかに死んで行き度い——)

幾久雄

こう私の友人は言うのです。私はそんな心持にはなれませんでしたが、友人の最後の望みに反《そむ》くわけには行きません。

幾久雄

友人の手からストラドヴァリウスを受取って、私が諳《そら》んじて居る限りの、静かな淋しい曲をひいてやりました。

幾久雄

秋の軽井沢は、昼でも淋しいのに、その晩は又美しく晴れて、競い鳴く虫の音が、私のヴァイオリンへ伴奏の様に入り硝子《ガラス》窓を通して落ちた月の光りが、末期《まつご》の人の安らかな微笑《ほほえみ》を青白く照して居りました」

幾久雄の瞼には、真珠のような涙が溢れました。信子はもうハンケチに顔を埋めて、漸《ようや》く声を呑んで居ります。

ベーカー

「お気の毒な事です、貴方《あなた》もよくしておやりになりました。美しい友情です」

ベーカーも眼をしばたたいて、この純情に燃える兄妹を、愛撫するような眼ざしで見廻しました。

幾久雄

「友人を葬ったのは今日、私共は、形見のストラドヴァリウスを持って、大急ぎでこの夜汽車に乗らなければなりませんでした。明日の午後、私は帝劇でヴァイオリン独奏会を開くことになって居るのです。

幾久雄

この日取はもう三ヶ月も前から決って居て、今更変えるわけには行きません、友人を葬ってすぐ軽井沢を発ったのはその為です。

幾久雄

その代り私は、亡くなった友人の好意で、日本での私の最初の独奏会に、日本にたった一つしかない、このストラドヴァリウスの名器で演奏することが出来るのです、悲しみの中の喜びと申したのは、斯ういうわけです」

青年の顔には、悲しみのうちにも、包み切れない歓喜《よろこび》が、潮のようにさして来るのでした。

ストラドヴァリウスを晴れの独奏会でひくことは、名ある武士が正宗の名刀を提《ひっさ》げて、戦陣に赴くようなものです。

この若い音楽家が、誇らしさと歓ばしさに、身内を慄《ふる》わせるのも無理はありません。

ベーカーと幾久雄兄妹は、何彼《なにか》の話に時の経つのも忘れましたが、熊谷へ来てから、信子が切《しき》りに渇きを訴えるので、兄妹は食堂に入って、暫《しば》らくソーダ水などに喉を潤おしました。

大宮を過ぎてから、車室に帰って来ると、先刻向う側に陣取った赤毛の西洋人と、混血美人とが、幾久雄と信子の席を奪って、ベーカーを挟んで両方に坐り込み、幾久雄兄妹が入って来ても、素知らぬ顔をして動こうともしません。それを見ると、

信子

「アッ」

信子は思わず驚きの声をあげました。

赤毛の西洋人の膝の上に持ったハンケチの下には、紛れも無い短銃《ピストル》——黒磨きの物凄い自働ピストル——がちらりと電灯の光を受けて見えたのです。

幾久雄兄妹は、黙って向う側の空席に着き、網棚から自分達の荷物などを移しました。

ベーカーは、短銃《ピストル》を突き付けられて居る人にも似ず、自若《じじゃく》として取乱した風も、物に驚いた風もありませんでしたが、さすがにもう先刻のように、兄妹を相手に気軽に話をするような事はありませんでした。

汽車が上野へ着いたのは、もう夜半近い頃でした。

兄妹はベーカーに目礼して別れを告げ、ベーカーも亦《また》物言い度気《たげ》な眼をしばたたきましたが、何を憚《はばか》るのか、そのままスタスタと改札口の人ごみの中に姿を隠してしまいました。