0
藪の中
7話 巫女の口を借りたる死霊の物語
藪の中(芥川龍之介の作品)第7話 「巫女の口を借りたる死霊の物語」を今すぐ読もう!チャット形式小説投稿サイトBookChat
無料読者登録しませんか? 読者登録すると読んでいる小説を途中から読み始められます!
死霊

——盗人《ぬすびと》は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利《き》けない。

死霊

体も杉の根に縛《しば》られている。が、おれはその間《あいだ》に、何度も妻へ目くばせをした。

死霊

この男の云う事を真《ま》に受けるな、何を云っても嘘と思え、——おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然《しょうぜん》と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。

死霊

それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか?

死霊

おれは妬《ねたま》しさに身悶《みもだ》えをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。

死霊

そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか?

死霊

自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、——盗人はとうとう大胆《だいたん》にも、そう云う話さえ持ち出した。

死霊

盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡《もた》げた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。

死霊

しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか?

死霊

おれは中有《ちゅうう》に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚《しんい》に燃えなかったためしはない。

死霊

妻は確かにこう云った、——「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)

死霊

妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇《やみ》の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。

死霊

しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色《がんしよく》を失ったなり、杉の根のおれを指さした。

死霊

「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」——妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。

死霊

「あの人を殺して下さい。」——この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様《さかさま》におれを吹き落そうとする。

死霊

一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか?

死霊

一度でもこのくらい呪《のろ》わしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか?

死霊

一度でもこのくらい、——(突然|迸《ほとばし》るごとき嘲笑《ちょうしょう》)

死霊

その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。「あの人を殺して下さい。」——妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋《すが》っている。

死霊

盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。——と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒《けたお》された、(再《ふたた》び迸るごとき嘲笑)

死霊

盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。

死霊

「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷《うなず》けば好《よ》い。殺すか?」——おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦《ゆる》してやりたい。(再び、長き沈黙)

死霊

妻はおれがためらう内に、何か一声《ひとこえ》叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。

死霊

盗人も咄嗟《とっさ》に飛びかかったが、これは袖《そで》さえ捉《とら》えなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。

死霊

盗人は妻が逃げ去った後《のち》、太刀《たち》や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄《なわ》を切った。

死霊

「今度はおれの身の上だ。」——おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟《つぶや》いたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。

死霊

いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。

死霊

が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度《みたび》、長き沈黙)

死霊

おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小刀《さすが》が一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺《さ》した。

死霊

何か腥《なまぐさ》い塊《かたまり》がおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。

死霊

この山陰《やまかげ》の藪の空には、小鳥一羽|囀《さえず》りに来ない。ただ杉や竹の杪《うら》に、寂しい日影が漂《ただよ》っている。

死霊

日影が、——それも次第に薄れて来る。——もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。

死霊

その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇《うすやみ》が立ちこめている。

死霊

誰か、——その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀《さすが》を抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢《あふ》れて来る。

死霊

おれはそれぎり永久に、中有《ちゅうう》の闇へ沈んでしまった。………

 (大正十年十二月)