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藪の中
5話 多襄丸の白状
藪の中(芥川龍之介の作品)第5話 「多襄丸の白状」を今すぐ読もう!チャット形式小説投稿サイトBookChat
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多襄丸

あの男を殺したのはわたしです。しかし女は殺しはしません。

多襄丸

ではどこへ行ったのか? それはわたしにもわからないのです。

多襄丸

まあ、お待ちなさい。いくら拷問《ごうもん》にかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯《ひきょう》な隠し立てはしないつもりです。

多襄丸

わたしは昨日《きのう》の午《ひる》少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。

多襄丸

その時風の吹いた拍子《ひょうし》に、牟子《むし》の垂絹《たれぎぬ》が上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。

多襄丸

ちらりと、——見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩《にょぼさつ》のように見えたのです。

多襄丸

わたしはその咄嗟《とっさ》の間《あいだ》に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。

多襄丸

何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女を奪《うば》うとなれば、必ず、男は殺されるのです。

多襄丸

ただわたしは殺す時に、腰の太刀《たち》を使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。

多襄丸

なるほど血は流れない、男は立派《りっぱ》に生きている、——しかしそれでも殺したのです。

多襄丸

罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)

多襄丸

しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。

多襄丸

が、あの山科《やましな》の駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫《くふう》をしました。

多襄丸

これも造作《ぞうさ》はありません。

多襄丸

わたしはあの夫婦と途《みち》づれになると、向うの山には古塚《ふるづか》がある、この古塚を発《あば》いて見たら、鏡や太刀《たち》が沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪《やぶ》の中へ、そう云う物を埋《うず》めてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、——と云う話をしたのです。

多襄丸

男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、——どうです。

多襄丸

欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半時《はんとき》もたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路《やまみち》へ馬を向けていたのです。

多襄丸

わたしは藪《やぶ》の前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇《かわ》いていますから、異存《いぞん》のある筈はありません。

多襄丸

が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。

多襄丸

わたしはこれも実を云えば、思う壺《つぼ》にはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。

多襄丸

藪はしばらくの間《あいだ》は竹ばかりです。が、半町《はんちょう》ほど行った処に、やや開いた杉むらがある、——わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合《つごう》の好《い》い場所はありません。

多襄丸

わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩《や》せ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。

多襄丸

その内に竹が疎《まば》らになると、何本も杉が並んでいる、——わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。

多襄丸

男も太刀を佩《は》いているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括《くく》りつけられてしまいました。

多襄丸

縄《なわ》ですか? 縄は盗人《ぬすびと》の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。

多襄丸

勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張《ほおば》らせれば、ほかに面倒はありません。

多襄丸

わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも図星《ずぼし》に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。

多襄丸

女は市女笠《いちめがさ》を脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。

多襄丸

ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛《しば》られている、——女はそれを一目見るなり、いつのまに懐《ふところ》から出していたか、きらりと小刀《さすが》を引き抜きました。

多襄丸

わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈《はげ》しい女は、一人も見た事がありません。もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹《ひばら》を突かれたでしょう。

多襄丸

いや、それは身を躱《かわ》したところが、無二無三《むにむざん》に斬り立てられる内には、どんな怪我《けが》も仕兼ねなかったのです。

多襄丸

が、わたしも多襄丸《たじょうまる》ですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀《さすが》を打ち落しました。

多襄丸

いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。

多襄丸

男の命は取らずとも、——そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。

多襄丸

所が泣き伏した女を後《あと》に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋《すが》りつきました。

多襄丸

しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥《はじ》を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。

多襄丸

いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、——そうも喘《あえ》ぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)

多襄丸

こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷《ざんこく》な人間に見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。

多襄丸

殊にその一瞬間の、燃えるような瞳《ひとみ》を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴《かみなり》に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。

多襄丸

妻にしたい、——わたしの念頭《ねんとう》にあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑《いや》しい色欲ではありません。

多襄丸

もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒《けたお》しても、きっと逃げてしまったでしょう。

多襄丸

男もそうすればわたしの太刀《たち》に、血を塗る事にはならなかったのです。が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那《せつな》、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。

多襄丸

しかし男を殺すにしても、卑怯《ひきょう》な殺し方はしたくありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。

多襄丸

(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)

多襄丸

男は血相《けっそう》を変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利《き》かずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。——その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。

多襄丸

わたしの太刀は二十三|合目《ごうめ》に、相手の胸を貫きました。二十三合目に、——どうかそれを忘れずに下さい。

多襄丸

わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)

多襄丸

わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、——どうです、あの女はどこにもいないではありませんか?

多襄丸

わたしは女がどちらへ逃げたか、杉むらの間を探して見ました。が、竹の落葉の上には、それらしい跡《あと》も残っていません。

多襄丸

また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉《のど》に、断末魔《だんまつま》の音がするだけです。

多襄丸

事によるとあの女は、わたしが太刀打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。——わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐにまたもとの山路《やまみち》へ出ました。

多襄丸

そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。その後《ご》の事は申し上げるだけ、無用の口数《くちかず》に過ぎますまい。

多襄丸

ただ、都《みやこ》へはいる前に、太刀だけはもう手放していました。——わたしの白状はこれだけです。

多襄丸

どうせ一度は樗《おうち》の梢《こずえ》に、懸ける首と思っていますから、どうか極刑《ごっけい》に遇わせて下さい。(昂然《こうぜん》たる態度)