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真田幸村
9話 幸村の最期
真田幸村(菊池寛の作品)第9話 「幸村の最期」を今すぐ読もう!チャット形式小説投稿サイトBookChat
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幸村の最期の戦いは、越前勢の大軍を真向に受けて開始された。

幸村は、屡々《しばしば》越前勢をなやましつつ、天王寺と一心寺との間の竜《たつ》の丸に備えて士卒に、兵糧を使わせた。

幸村はここで一先ず息を抜いて、その暇に、明石|掃部助全登《かもんのすけなりとよ》をして今宮表より阿部野へ廻らせて、大御所の本陣を後《うしろ》より衝かせんとしたが、この計画は、松平武蔵守の軍勢にはばまれて着々と運ばなかった。

そこで、幸村は毛利勝永と議して、愈々秀頼公の御出馬を乞うことに決した。

秀頼公が御旗《おんはた》御馬印を、玉造口まで押出させ、寄手の勢力を割いて明石が軍を目的地に進ましめることを計った。

真田の穴山小助、毛利の古林一平次等が、その緊急の使者に城中へ走った。

この使者の往来しつつある猶予を見つけたのが、越前方の監使榊原飛騨守である。

飛騨守は

飛騨守

「今こそ攻めるべし、遅るれば必ず後より追撃されん」

と忠直卿に言上した。

忠直卿早速、舎弟伊予守忠昌、出羽守直次をして左右両軍を連ねさせ、二万余騎を以て押し寄せたが、幸村は今暫く待って戦わんと、待味方《まちみかた》の備をもって、これに当っていた。

すると、意外にも、本多忠政、松平忠明等、渡辺大谷などの備を遮二無二切崩して真田が陣へ駆け込んで来た。

また水野勝成等も、昨日の敗を報いんものと、勝曼院の西の方から六百人許り、鬨を揚げて攻寄せて来た。幸村は、遂に三方から敵を受けたのである。

幸村

「最早これまでなり」

と意を決して、冑の忍の緒を増花形《ますはながた》に結び——これは討死の時の結びようである——馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より賜った緋縮緬《ひぢりめん》の陣羽織をさっと着流して、金の采配をおっ取って敵に向ったと言う。

三方の寄手合せて三万五千人、真田勢僅かに二千余人、しかも、寄手の戦績はかばかしく上らないので、家康は気を揉《も》んで、稲富喜三郎、田付《たづけ》兵庫等をして鉄砲の者を召連れて、越前勢の傍より真田勢を釣瓶打《つるべうち》にすべしと命じた位である。

真田勢の死闘の程思うべしである。

幸村は、三つの深手を負ったところへ、この鉄砲組の弾が左の首摺《くびずり》の間に中《あた》ったので、既に落馬せんとして、鞍の前輪に取付き差うつむくところを、忠直卿の家士西尾|仁右衛門《にえもん》が鎗で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。

西尾は、その首を取ったが、誰とも知らずに居たが、後にその胄が、嘗《かつ》て原隼人に話したところのものであり、口を開いてみると、前歯が二本|闕《か》けていたので、正しく幸村が首級と分ったわけである。

西尾は才覚なき士で、その時太刀を取って帰らなかったので、太刀は、後に越前家の斎藤勘四郎が、これを得て帰った。

幸村の首級と太刀とは、後に兄の伊豆守信幸に賜ったので、信幸は二男内記をして首級は高野山天徳院に葬らしめ、太刀は、自ら取って、真田家の家宝としたと言う。

この役に、関西方に附いた真田家の一族は、尽《ことごと》く戦死した。

甥幸綱、幸堯《ゆきたか》等は幸村と同じ戦場で斃《たお》れた。

一子大助は、城中において、秀頼公の最期間近く自刃して果て、父の言葉に従った。