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真田幸村
7話 天王寺口の戦
真田幸村(菊池寛の作品)第7話 「天王寺口の戦」を今すぐ読もう!チャット形式小説投稿サイトBookChat
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元和《げんな》元年になると東西の和睦は既に破れ関東の大軍、はや伏見まで着すと聞えた。

五月五日、この日、道明寺玉手表には、既に戦始り、幸村の陣取った太子へも、その鬨《とき》の声、筒音など響かせた。

朝、幸村の物見の者、馳帰って、

物見の者

旗三四十本、人衆《にんず》二三万許り、国府越より此方へ踰来《こえきた》り候

と告げた。これ伊達政宗の軍兵であった。が、幸村静に、障子に倚《よ》りかかったまま、

幸村

左あらん

とのみ言った。

午後、物見の者、また帰って来て、

物見の者

今朝のと旗の色変りたるもの、人衆二万ほど竜田越に押下り候、

と告げた。これ松平忠輝が軍兵であった。幸村|虚睡《そらねむ》りしていたが、目を開き

幸村

「よしよし、いか程にも踰えさせよ。一所に集めて討取らんには大いに快し」

とうそぶいた。

軍に対して、既に成算のちゃんと立っている軍師らしい落着ぶりである。

さて、夕炊《ゆうげ》も終って後、幸村|徐《おもむ》ろに

幸村

「この陣所は戦いに便なし、いざ敵近く寄らん」

と言って、一万五千余の兵を粛々と押出した。その夜は道明寺表に陣取った。

明れば六日、早旦、野村|辺《あたり》に至ると、既に渡辺内蔵助|糺《ただす》が水野|勝成《かつなり》と戦端を開いていた。

相当の力戦で、糺は既に身に深手を負っていた。幸村の軍|来《きた》ると分ると、糺は使を遣わして

「只今の迫合に創《きず》を蒙りて復《また》戦うこと成り難し。然る故、貴殿の蒐引《かけひき》に妨げならんと存じ人衆を脇に引取候。かくして横を討たんずる勢いを見せて控え候。これ貴殿の一助たるべきか」

と言って来た。

幸村、喜んで

幸村

「御働きの程、目を愕《おどろ》かしたり。敵はこれよりわれ等が受取ったり」

と言って、軍を進めた。

水野勝成の軍は伊達政宗、松平忠輝等の連合軍であった。幸村|愈《いよいよ》現われると聞き、政宗の兵、一度に掛り来る。

ここで、野村という所の地形を言っておくと、前後が岡になっていて、その中間十町ばかりが低地であり、左右|田疇《でんちゅう》に連っている。

幸村の兵が、今しも、この岡を半ばまで押上げたと思うと、政宗の騎馬鉄砲八百挺が、一度に打立てた。

この騎馬鉄砲は、政宗御自慢のものである。

仙台といえば、聞えた名馬の産地。その駿足に、伊達家の士の二男三男の壮力の者を乗せ、馬上射撃を一斉に試みさせる。

打立てられて敵の備の乱れた所を、煙の下より直ちに乗込んで、馬蹄に蹴散らすという、いかにも、東国の兵らしい荒々しき戦法である。

この猛撃にさすがの幸村の兵も弾丸に傷き、死する者も相当あった。

然し、幸村は

幸村

「爰《ここ》を辛抱せよ。片足も引かば全く滅ぶべし」

と、先鋒に馳来って下知した。一同、その辺りの松原を楯として、平伏《ひれふ》したまま、退く者はなかった。

始め、幸村は暑熱に兵の弱るのを恐れて、冑も附けさせず、鎗も持たせなかった。かくて、敵軍十町ばかりになるに及んで、使番を以て、

幸村

「冑を着よ」

と命じた。更に、二町ばかりになるに及んで、使番をして

幸村

「鎗を取れ」

と命じた。

これが、兵の心の上に非常な効果を招いた。敵前間近く冑の忍《しのび》の緒を締め、鎗をしごいて立った兵等の勇気は百倍した。

さしもの伊達の騎馬鉄砲に耐えて、新附仮合の徒である幸村の兵に一歩も退く者のなかったのはそのためであろう。

幸村は、漸く、敵の砲声もたえ、烟も薄らいで来た時、頃合はよし、いざかかれと大音声に下知した。

声の下より、皆起って突かかり、瞬《またた》く間に、政宗の先手《さきて》を七八町ほど退かしめた。

政宗の先手には、かの片倉小十郎、石母田大膳等が加っていたが、「敵は小勢ぞ、引くるみて討ち平げん」など豪語していたに拘らず、幸村の疾風の兵に他愛なく崩されてしまったのである。

これが、世に真田道明寺の軍と言われたものである。

新鋭の兵器を持って、東国独特の猛襲を試みた伊達勢も、さすがに、真田が軍略には、歯が立たなかったわけである。

幸村は、それから士卒をまとめて、毛利勝永の陣に来た。

そして、勝永の手を取って、涙を流して言った。

幸村

「今日は、後藤又兵衛と貴殿とともに存分、東軍に切込まんと約せしに時刻おそくなり、後藤を討死させし故、謀《はかりごと》空しくなり申候。これも秀頼公御運の尽きぬるところか」

と。

この六日の朝は、霧深くして、夜の明《あけ》も分らなかったので幸村の出陣が遅れたのである。

若《も》し、そんな支障がなかったら、関東軍は、幸村等に、どれ程深く切り込まれていたか分らない。

勝永も涙を面に泛《うか》べ

勝永

「さり乍《なが》ら、今日の御働き、大軍に打勝れた武勇の有様、古《いにしえ》の名将にもまさりたり」

と称揚した。

幸村の一子大助、今年十六歳であったが、組討して取《とっ》たる首を鞍の四方手に附け、相当の手傷を負っていたが、流るる血を拭いもせずに、そこへ馳せて来た。

勝永これを見て、更に

勝永

「あわれ父が子なり」

と称《たた》えたという。

こうして、五月六日の戦は、真田父子の水際《みずぎわ》立った奮戦に終始した。