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倫敦塔
2話 倫敦塔 -2
倫敦塔(夏目漱石の作品)第2話 「倫敦塔 -2」を今すぐ読もう!チャット形式小説投稿サイトBookChat
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兄が優しく清らかな声で膝の上なる書物を読む。

「我が眼の前に、わが死ぬべき折の様を想《おも》い見る人こそ幸《さち》あれ。日毎夜毎に死なんと願え。やがては神の前に行くなる吾の何を恐るる……」

弟は世に憐れなる声にて

「アーメン」

と云う。折から遠くより吹く木枯《こがら》しの高き塔を撼《ゆる》がして一度《ひとた》びは壁も落つるばかりにゴーと鳴る。弟はひたと身を寄せて兄の肩に顔をすりつける。

雪のごとく白い蒲団《ふとん》の一部がほかと膨《ふく》れ返《かえ》る。兄はまた読み初める。

「朝ならば夜の前に死ぬと思え。夜ならば翌日《あす》ありと頼むな。覚悟をこそ尊《とうと》べ。見苦しき死に様《ざま》ぞ恥の極みなる……」

弟また

「アーメン」

と云う。その声は顫《ふる》えている。兄は静かに書をふせて、かの小さき窓の方《かた》へ歩みよりて外《と》の面《も》を見ようとする。窓が高くて背《せ》が足りぬ。

床几《しょうぎ》を持って来てその上につまだつ。百里をつつむ黒霧《こくむ》の奥にぼんやりと冬の日が写る。屠《ほふ》れる犬の生血《いきち》にて染め抜いたようである。兄は

「今日《きょう》もまたこうして暮れるのか」

と弟を顧《かえり》みる。弟はただ

「寒い」

と答える。

「命さえ助けてくるるなら伯父様に王の位を進ぜるものを」

と兄が独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやく。弟は

「母様《ははさま》に逢《あ》いたい」

とのみ云う。この時向うに掛っているタペストリに織り出してある女神《めがみ》の裸体像が風もないのに二三度ふわりふわりと動く。

忽然《こつぜん》舞台が廻る。見ると塔門の前に一人の女が黒い喪服を着て悄然《しょうぜん》として立っている。

面影《おもかげ》は青白く窶《やつ》れてはいるが、どことなく品格のよい気高《けだか》い婦人である。

やがて錠《じょう》のきしる音がしてぎいと扉が開《あ》くと内から一人の男が出て来て恭《うやうや》しく婦人の前に礼をする。

婦人

「逢う事を許されてか」

と女が問う。

牢守

「否《いな》」

と気の毒そうに男が答える。

牢守

「逢わせまつらんと思えど、公けの掟《おきて》なればぜひなしと諦《あきら》めたまえ。私《わたくし》の情《なさけ》売るは安き間《ま》の事にてあれど」

と急に口を緘《つぐ》みてあたりを見渡す。濠《ほり》の内からかいつぶりがひょいと浮き上る。

女は頸《うなじ》に懸けたる金《きん》の鎖《くさり》を解いて男に与えて

婦人

「ただ束《つか》の間《ま》を垣間《かいま》見んとの願なり。女人《にょにん》の頼み引き受けぬ君はつれなし」

と云う。

男は鎖りを指の先に巻きつけて思案の体《てい》である。かいつぶりはふいと沈む。ややありていう

牢守

「牢守《ろうも》りは牢の掟《おきて》を破りがたし。御子《みこ》らは変る事なく、すこやかに月日を過させたもう。心安く覚《おぼ》して帰りたまえ」

と金の鎖りを押戻す。女は身動きもせぬ。鎖ばかりは敷石の上に落ちて鏘然《そうぜん》と鳴る。

婦人

「いかにしても逢う事は叶《かな》わずや」

と女が尋《たず》ねる。

牢守

「御気の毒なれど」

と牢守《ろうもり》が云い放つ。

婦人

「黒き塔の影、堅き塔の壁、寒き塔の人」

と云いながら女はさめざめと泣く。

舞台がまた変る。

丈《たけ》の高い黒装束《くろしょうぞく》の影が一つ中庭の隅にあらわれる。苔《こけ》寒き石壁の中《うち》からスーと抜け出たように思われた。

夜と霧との境に立って朦朧《もうろう》とあたりを見廻す。しばらくすると同じ黒装束の影がまた一つ陰の底から湧《わ》いて出る。

櫓《やぐら》の角に高くかかる星影を仰いで

背の高い人

「日は暮れた」

と背《せ》の高いのが云う。

背の低い人

「昼の世界に顔は出せぬ」

と一人が答える。

背の高い人

「人殺しも多くしたが今日ほど寝覚《ねざめ》の悪い事はまたとあるまい」

と高き影が低い方を向く。

背の低い人

「タペストリの裏《うら》で二人の話しを立ち聞きした時は、いっその事|止《や》めて帰ろうかと思うた」

と低いのが正直に云う。

背の低い人

「絞《し》める時、花のような唇《くちびる》がぴりぴりと顫《ふる》うた」

背の低い人

「透《す》き通るような額《ひたい》に紫色の筋が出た」

背の低い人

「あの唸《うな》った声がまだ耳に付いている」。

黒い影が再び黒い夜の中に吸い込まれる時櫓の上で時計の音ががあんと鳴る。

空想は時計の音と共に破れる。石像のごとく立っていた番兵は銃を肩にしてコトリコトリと敷石の上を歩いている。あるきながら一件《いっけん》と手を組んで散歩する時を夢みている。

血塔の下を抜けて向《むこう》へ出ると奇麗な広場がある。その真中《まんなか》が少し高い。その高い所に白塔がある。白塔は塔中のもっとも古きもので昔《むか》しの天主である。

竪《たて》二十間、横十八間、高さ十五間、壁の厚さ一丈五尺、四方に角楼《すみやぐら》が聳《そび》えて所々にはノーマン時代の銃眼《じゅうがん》さえ見える。

千三百九十九年国民が三十三カ条の非を挙げてリチャード二世に譲位《じょうい》をせまったのはこの塔中である。

僧侶、貴族、武士、法士の前に立って彼が天下に向って譲位を宣告したのはこの塔中である。

その時譲りを受けたるヘンリーは起《た》って十字を額と胸に画して云う

「父と子と聖霊の名によって、我れヘンリーはこの大英国の王冠と御代とを、わが正しき血、恵みある神、親愛なる友の援《たすけ》を藉《か》りて襲《つ》ぎ受く」

と。さて先王の運命は何人《なんびと》も知る者がなかった。

その死骸がポント・フラクト城より移されて聖《セント》ポール寺に着した時、二万の群集は彼の屍《しかばね》を繞《めぐ》ってその骨立《こつりつ》せる面影《おもかげ》に驚かされた。

あるいは云う、八人の刺客《せっかく》がリチャードを取り巻いた時彼は一人の手より斧《おの》を奪いて一人を斬《き》り二人を倒した。

されどもエクストンが背後より下《くだ》せる一撃のためについに恨《うらみ》を呑《の》んで死なれたと。

ある者は天を仰《あお》いで云う「あらずあらず。リチャードは断食《だんじき》をして自《みずか》らと、命の根をたたれたのじゃ」と。

いずれにしてもありがたくない。帝王の歴史は悲惨の歴史である。

階下の一室は昔しオルター・ロリーが幽囚《ゆうしゅう》の際|万国史《ばんこくし》の草《そう》を記した所だと云い伝えられている。

彼がエリザ式の半ズボンに絹の靴下を膝頭《ひざがしら》で結んだ右足を左《ひだ》りの上へ乗せて鵞《が》ペンの先《さき》を紙の上へ突いたまま首を少し傾けて考えているところを想像して見た。

しかしその部屋は見る事が出来なかった。