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手紙
2話 二
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重吉は学校を出たばかりである。そうして出るやいなやすぐいなかへ行ってしまった。

なぜそんな所へ行くのかと聞いたら別にたいした意味もないが、ただ口を頼んでおいた先輩が、行ったらどうだと勧めるからその気になったのだと答えた。

それにしてもHはあんまりじゃないか、せめて大阪とか名古屋とかなら地方でも仕方がないけれどもと、自分は当人がすでにきめたというにもかかわらず一応彼のH行《ゆき》に反対してみた。

その時重吉はただにやにや笑っていた。

そうして今急にあすこに欠員ができて困ってるというから、当分の約束で行くのです、じきまた帰ってきますと、あたかも未来が自分のかってになるようなものの言い方をした。

自分はその場で重吉の「また帰ってきます」を「帰ってくるつもりです」に訂正してやりたかったけれどもそう思い込んでいるものの心を、無益にざわつかせる必要もないからそれはそれなりにしておいて、じゃあのことはどうするつもりだと尋ねた。

「あのこと」は今までの行きがかり上、重吉の立つまえにぜひとも聞いておかなければならない問題だったからである。

すると重吉は別に気にかける様子もなく、万事|貴方《あなた》にお任せするからよろしく願いますと言ったなり、平気でいた。

刺激に対して急劇な反応を示さないのはこの男の天分であるが、それにしても彼の年齢と、この問題の性質から一般的に見たところで、重吉の態度はあまり冷静すぎて、定量未満の興味しかもちえないというふうに思われた。

自分は少し不審をいだいた。

元来自分と妻《さい》と重吉の間にただ「あのこと」として一種の符牒《ふちょう》のように通用しているのは、実をいうと、彼の縁談に関する件であった。

卒業の少し前から話が続いているので、自分たちだけには単なる「あのこと」でいっさいの経過が明らかに頭に浮かむせいか、べつだん改まって相手の名前などは口へ出さないで済ますことが多かったのである。

女は妻の遠縁に当たるものの次女であった。

その関係でときどき自分の家に出はいるところからしぜん重吉とも知り合いになって、会えば互いに挨拶《あいさつ》するくらいの交際が成立した。

けれども二人《ふたり》の関係はそれ以上に接近する機会も企てもなく、ほとんど同じ距離で進行するのみにみえた。

そうして二人ともそれ以上に何物をも求むる気色がなかった。

要するに二人の間は、年長者の監督のもとに立つある少女と、まだ修業ちゅうの身分を自覚するある青年とが一種の社会的な事情から、互いと顔を見合わせて、礼儀にもとらないだけの応対をするにすぎなかった。

だから自分は驚いたのである。

重吉があがらずせまらず、常と少しも違わない平面な調子で、あの人を妻《さい》にもらいたい、話してくれませんかと言った時には、君ほんとうかと実際聞き返したくらいであった。

自分はすぐ重吉の挙止動作がふだんにたいていはまじめであるごとく、この問題に対してもまたまじめであるのを発見した。

そうして過渡期の日本の社会道徳にそむいて、私の歩を相互に進めることなしに、意志の重みをはじめから監督者たる父母に寄せかけた彼の行ないぶりを快く感じた。

そこで彼の依頼を引き受けた。

さっそく妻をやって先方へ話をさせてみると、妻は女の母の挨拶だといって、妙な返事をもたらした。

金はなくってもかまわないから道楽をしない保証のついた人でなければやらないというのである。

そうしてなぜそんな注文を出すのか、いわれが説明としてその返事に伴っていた。

女には一人の姉があって、その姉は二、三年まえすでにある資産家のところへ嫁に行った。

今でも行っている。

世間並みの夫婦として別にひとの注意をひくほどの波瀾《はらん》もなく、まず平穏に納まっているから、人目にはそれでさしつかえないようにみえるけれども、姉娘の父母はこの二、三年のあいだに、苦々しい思いをたえず陰でなめさせられたのである。

そのすべては娘のかたづいた先の夫の不身持ちから起こったのだといえばそれまでであるが、父母だって、娘の亭主を、業務上必要のつきあいから追い出してまで、娘の権利と幸福を庇護《ひご》しようと試みるほどさばけない人たちではなかった。