オツベルかね、そのオツベルは、おれも云おうとしてたんだが、居なくなったよ。
まあ落ちついてききたまえ。前にはなしたあの象を、オツベルはすこしひどくし過ぎた。
しかたがだんだんひどくなったから、象がなかなか笑わなくなった。時には赤い竜《りゅう》の眼をして、じっとこんなにオツベルを見おろすようになってきた。
ある晩象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰《あお》ぎ見て、
「苦しいです。サンタマリア。」
と云ったということだ。
こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。
ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒《たお》れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、
「もう、さようなら、サンタマリア。」
と斯う言った。
「おや、何だって? さよならだ?」
月が俄《にわ》かに象に訊《き》く。
「ええ、さよならです。サンタマリア。」
「何だい、なりばかり大きくて、からっきし意気地《いくじ》のないやつだなあ。仲間へ手紙を書いたらいいや。」
月がわらって斯う云った。
「お筆も紙もありませんよう。」
象は細ういきれいな声で、しくしくしくしく泣き出した。
「そら、これでしょう。」
すぐ眼の前で、可愛《かあい》い子どもの声がした。象が頭を上げて見ると、赤い着物の童子が立って、硯《すずり》と紙を捧《ささ》げていた。
象は早速手紙を書いた。
「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」
童子はすぐに手紙をもって、林の方へあるいて行った。
赤衣《せきい》の童子が、そうして山に着いたのは、ちょうどひるめしごろだった。
このとき山の象どもは、沙羅樹《さらじゅ》の下のくらがりで、碁《ご》などをやっていたのだが、額をあつめてこれを見た。
「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出てきて助けてくれ。」
象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠《ほ》えだした。
「オツベルをやっつけよう」
議長の象が高く叫《さけ》ぶと、
「おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。」
みんながいちどに呼応する。
さあ、もうみんな、嵐《あらし》のように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。どいつもみんなきちがいだ。
小さな木などは根こぎになり、藪《やぶ》や何かもめちゃめちゃだ。グワア グワア グワア グワア、花火みたいに野原の中へ飛び出した。
それから、何の、走って、走って、とうとう向うの青くかすんだ野原のはてに、オツベルの邸《やしき》の黄いろな屋根を見附《みつ》けると、象はいちどに噴火《ふんか》した。
グララアガア、グララアガア。その時はちょうど一時半、オツベルは皮の寝台《しんだい》の上でひるねのさかりで、烏《からす》の夢《ゆめ》を見ていたもんだ。
あまり大きな音なので、オツベルの家の百姓どもが、門から少し外へ出て、小手をかざして向うを見た。林のような象だろう。汽車より早くやってくる。
さあ、まるっきり、血の気も失せてかけ込《こ》んで、
「旦那《だんな》あ、象です。押し寄せやした。旦那あ、象です。」
と声をかぎりに叫んだもんだ。
ところがオツベルはやっぱりえらい。眼をぱっちりとあいたときは、もう何もかもわかっていた。
「おい、象のやつは小屋にいるのか。居る? 居る? 居るのか。よし、戸をしめろ。戸をしめるんだよ。早く象小屋の戸をしめるんだ。ようし、早く丸太を持って来い。
とじこめちまえ、畜生《ちくしょう》めじたばたしやがるな、丸太をそこへしばりつけろ。何ができるもんか。わざと力を減らしてあるんだ。
ようし、もう五六本持って来い。さあ、大丈夫だ。大丈夫だとも。あわてるなったら。おい、みんな、こんどは門だ。門をしめろ。かんぬきをかえ。つ
っぱり。つっぱり。そうだ。おい、みんな心配するなったら。しっかりしろよ。」
オツベルはもう支度《したく》ができて、ラッパみたいないい声で、百姓どもをはげました。ところがどうして、百姓どもは気が気じゃない。
こんな主人に巻き添《ぞ》いなんぞ食いたくないから、みんなタオルやはんけちや、よごれたような白いようなものを、ぐるぐる腕《うで》に巻きつける。降参をするしるしなのだ。
オツベルはいよいよやっきとなって、そこらあたりをかけまわる。オツベルの犬も気が立って、火のつくように吠《ほ》えながら、やしきの中をはせまわる。
間もなく地面はぐらぐらとゆられ、そこらはばしゃばしゃくらくなり、象はやしきをとりまいた。
グララアガア、グララアガア、その恐《おそ》ろしいさわぎの中から、
「今助けるから安心しろよ。」
やさしい声もきこえてくる。
「ありがとう。よく来てくれて、ほんとに僕《ぼく》はうれしいよ。」
象小屋からも声がする。さあ、そうすると、まわりの象は、一そうひどく、グララアガア、グララアガア、塀《へい》のまわりをぐるぐる走っているらしく、度々中から、怒《おこ》ってふりまわす鼻も見える。
けれども塀はセメントで、中には鉄も入っているから、なかなか象もこわせない。塀の中にはオツベルが、たった一人で叫んでいる。
百姓どもは眼もくらみ、そこらをうろうろするだけだ。そのうち外の象どもは、仲間のからだを台にして、いよいよ塀を越《こ》しかかる。だんだんにゅうと顔を出す。
その皺《しわ》くちゃで灰いろの、大きな顔を見あげたとき、オツベルの犬は気絶した。
さあ、オツベルは射《う》ちだした。六連発のピストルさ。ドーン、グララアガア、ドーン、グララアガア、ドーン、グララアガア、ところが弾丸《たま》は通らない。
牙《きば》にあたればはねかえる。一|疋《ぴき》なぞは斯《こ》う言った。
「なかなかこいつはうるさいねえ。ぱちぱち顔へあたるんだ。」
オツベルはいつかどこかで、こんな文句をきいたようだと思いながら、ケースを帯からつめかえた。そのうち、象の片脚が、塀からこっちへはみ出した。
それからも一つはみ出した。五匹の象が一ぺんに、塀からどっと落ちて来た。オツベルはケースを握ったまま、もうくしゃくしゃに潰《つぶ》れていた。
早くも門があいていて、グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込む。
「牢《ろう》はどこだ。」
みんなは小屋に押し寄せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折られ、あの白象は大へん瘠《や》せて小屋を出た。
「まあ、よかったねやせたねえ。」
みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。
「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」
白象はさびしくわらってそう云った。
おや、川へはいっちゃいけないったら。