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パノラマ島綺譚
12話 十二
パノラマ島綺譚(江戸川乱歩の作品)第12話 「十二」を今すぐ読もう!チャット形式小説投稿サイトBookChat
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あらゆる款待の内に、満悦の旅を続けながらも、廣介は、ともすれば、恐れと懐《なつか》しさの入混った感情で、邸に残した千代子の姿を、心に思い描くのでした。

あの泣きぬれた生毛《うぶげ》の魅力が、悩ましくも、彼の心を捉え、私《ひそ》かに覚えた、彼女の二の腕のほのかなる感触が、夜毎の夢となって、彼の魂を戦《おのの》かせるのでありました。

千代子は源三郎の女房であって見れば、彼女を愛するのは、今や源三郎となった廣介にとって当然の事でもあり、彼女の方でも、無論それを求めているのでしょうが、その様に易々《やすやす》と叶《かな》う願いである丈けに、

廣介にとっては、一層苦しく悩ましく、一夜の後《のち》にどの様な恐しい破綻《はたん》が起ろうとも、身も心も、彼の終生の夢さえも、彼女の前に抛《な》げ出して、いっそそのまま死のうかと、そんな無分別な考えを抱く様にもなるのでした。

でも、彼の最初からの計画によれば、まさか千代子の魅力が、これ程悩ましく彼の心に食入ろうとは、想像もしていなかったものですから、万一の危険を慮って、千代子は名前丈けの妻にして、なるべく彼の身辺から遠ざけて置く予定だったのです。

それは、彼の顔や姿や声音《こわね》などが、どの様に源三郎に生写《いきうつ》しであろうとも、それで以って、源三郎|昵懇《じっこん》の人々を欺《あざむ》きおおせようとも、

舞台の衣裳を脱ぎ捨てて扮装を解いた閏房《けいぼう》に於《お》いて、赤裸々《せきらら》の彼の姿を、亡き源三郎の妻の前に曝《さら》すのは、どう考え直しても、余りに無謀なことだからです。

千代子は、きっと源三郎のどんな小さな癖も、身体の隅々の特徴も、掌を指す様に知り尽していることでしょう。

随って、廣介の身体のどこかの隅に、少しでも源三郎と違った部分があったなら、立所に彼の仮面ははがれ、それが因《もと》になって、遂には彼の陰謀がすっかり曝露《ばくろ》しないものでもないのです。

廣介

「お前は、それがどれ程優れた女であろうと、たった一人の千代子の為に、お前の年来抱いていた大きな理想を捨てて了うことが出来るのか。

廣介

若しその理想を実現することが出来たなら、そこには、一婦人の魅力などとは、比べものにもならぬ程、強く烈《はげ》しい陶酔《とうすい》の世界が、お前を待受けているのではないか。まあ考えて見るがいい。

廣介

お前が日頃|幻《まぼろし》に描いている、理想境の、たった一部分丈けでも思出《おもいだ》して見るがいい。

廣介

それに比べては、一人と一人の人間界の恋などは、余りに小さな取るにも足らぬ望みではないか。

廣介

眼先《めさき》の迷いに駆られて、折角の苦労を水の泡にしてはいけない。お前の慾望はもっともっと大きかった筈ではないのか」

彼はそうして、現実と夢との境に立って、夢を捨てることは勿論出来ないけれど、といって、現実の誘惑は余りに力強く、二重三重のディレンマに陥《おちい》り、人知れぬ苦悶《くもん》を味わねばなりませんでした。

が、結局は、半生の夢の魅力と、犯罪発覚の恐怖とが、千代子を断念させないでは置かなかったのです。

そして、その悲しみをまぎらす為に、千代子の物淋しげな、憂《うれ》い顔を、彼の脳裏からかき消す為に、それが本来の目的でもあるかの如く、彼はひたすら、彼の事業に没頭するのでありました。

巡視から帰ると、彼は先ず最も目立たぬ株券の類を、私《ひそ》かに処分せしめて、それを以て理想境建設の準備に着手しました。

新しく傭《やと》い入れた画家、彫刻家、建築技師、土木技師、造園家などが、日々彼の邸につめかけ、彼の指図に従って、世にも不思議な設計の仕事が始められました。

それと同時に一方では、夥しい樹木、花卉《かき》、石材、ガラス板、セメント、鉄材、等《など》の註文書が、或は註文の使者が、遠くは南洋の方までも送られ、夥多《あまた》の土方、大工、植木職などが続々として各地から召集されました。

その中には、少数の電気職工だとか、潜水夫だか、舟大工なども混っていたのです。

不思議なことは、その頃から、彼の邸に小間使とも女中ともつかぬ若い女共が、日毎に新しく傭入れられ、暫くすると、彼女|等《ら》の部屋にも困る程に、その数《すう》を増して行くのでした。

理想境建設の場所は、幾度とない模様替えの後、結局、S郡の南端に孤立する沖の島と決定され、それと同時に、設計事務所は、沖の島の上に建てられた急造のバラックへと移転し、技術者を始め、職人、土工、それにえたいの知れぬ女達も、皆島へ島へと移されました。

やがて、註文の諸材料が次々と到着するに従って、島の上には、愈々異様なる大工事が始まったのです。

菰田家の親族を始め、各種事業の主脳者達は、この暴挙を見て黙っている筈はありません。

事業が進捗《しんちょく》するに従って、廣介の応接間には、設計の仕事にたずさわる技術者達に立混って、毎日の様に、それらの人々が詰めかけ、声を荒らだて、廣介の無謀を責め、えたいの知れぬ土木事業の中止を求めるのでありました。

が、それは廣介がこの計画を思い立つ最初に於て、已《すで》に予期していた所なのです。彼はその為には、菰田家の全財産の半ばを抛《なげう》つ覚悟を極《き》めていたのでした。

親族といっても皆菰田家よりは目下のものばかりで、財産なども格段の相違があるのですから、止むを得ない場合には、惜しげもなく巨額の富を別《わ》け与えることによって、訳もなく彼等の口を緘《かん》することが出来たのです。

そして、あらゆる意味で戦闘の一年間が過ぎ去りました。

その間に、廣介がどの様な辛苦《しんく》をなめたか、幾度事業を投げ出そうとしては、からくも思い止ったか、彼と妻の千代子の関係が如何に救い難き状態に陥ったか、

それらの点は物語の速度を早める上から、凡て読者諸君の想像に任せて、之《これ》を要するに、凡ての危機を救ってくれたものは、菰田家に蓄積された無尽蔵の富の力であった。

金力の前には、不可能の文字がなかったのだということを申上げるに止めて置きましょう。